【元うつ病教員】教員免許を活かして民間企業へ転職!

うつで公務員を退職。教員免許を活かして民間企業へ転職しました。休職→退職→転職の実体験を書いていきます。同じような状況で悩んでいる方の力になれますように!

【教師から転職】悩んでいるだけじゃ始まらない!

【教師から転職】悩んでるだけじゃ始まらない!

この記事を目にしている方は、きっと教師から転職することを日々考えながら生活を送っているのだと思います。私もそうでした。

公務員という安定を捨てて転職することには、かなりの決断が必要でした。

 

休職していたこともあり、仕事のことを考えられるようになったのは、心身が健康になってからです。もし、今、うつや適応障害といった病を抱えている方は、まずは仕事のことは考えず、ゆっくりと体を休めてください。

精神的に安定している状態でなければ、まともな判断はできません。

しかし、転職のことを考えると心が安定するという場合もあります。(私はそうでした。)その場合は、ネットでどんどん情報を収集しましょう。無理に決断しなくてもいいので、焦らずじっくりと考えていってください。

目次

1.転職理由を考えよう

あなたが転職したいと思う理由は何でしょうか。

  • 勤務時間が長い
  • 仕事と給料が見合わない
  • モンスターペアレントの対応が辛い
  • 学校という組織が合わない
  • 仕事の量が多い
  • 自分の思っていることができない
…など、これ以上にもたくさん辞めたい理由はあると思います。まずは、箇条書きでもいいので自分が転職したい理由を書き出してみてください。
 
一度整理してみると、「なんだこの程度か」「辞めるほどではないか」ということもあると思います。解決できるのであれば、わざわざ転職する道を選ぶ必要はありません。
 
ちなみに、私が転職活動をして感じたことは、
最近の企業は、学校がブラックだという認識をもち始めているということです。
 つまり、転職の理由が学校の過酷な労働に耐えられないということであっても、理解を示してくれることが増えたのです。
近年では、テレビや新聞、SNSなどで学校がブラックだということは、広まりつつあるので、転職のハードルは間違いなく下がっていると思います。
学校の働き方に疑問をもっているということも立派な転職理由になるので、正直に自分の思いをまとめてみてください。

 

2.メリットとデメリットを考えよう

これも転職を考えるための材料となるので、必ず考えた方がいいと思います。

私の場合

【メリット】

・勤務時間が短くなる

・健康でいられる

・学校という組織から解放される

・ストレスが減る

・早く帰って好きなことができる

 

【デメリット】

・給料が下がる

・長期休みが減る

・給食が食べられなくなる

…ざっとこんな感じ。

デメリットが給料と給食(笑)という時点で、自分はもう教師でいる価値はないなと思いました。

ぜひメリットとデメリットを整理して、転職の必要性を考えてみてください。

 

3.女性のライフステージ

私は上記のことに加え、妊娠、出産といったライフステージについても考えました。男性であればそこまで心配はいらないかもしれませんが、女性は結婚、妊娠、出産も転職に大きく関わります。私にとってはこれが大きな悩みの種でした。

その当時、結婚をして1年が経過していました。私はPCOという排卵障害を抱えていたため、医者からはすぐにでも妊活をした方がいいとも言われていました。

妊婦ではさすがに就活はできない。子供を産んでからの就活は厳しそう…など色々と考えた結果、先に転職する道を選びました。

 

悩み過ぎて、女で生まれたことを嫌になるくらいでした。でも女性にしか経験できないこと、女性にしかできないこともきっとありますよね。

ぜひご自身のライフステージも考えつつ、転職の時期を考えてみてください。

まとめ

学校の先生は、真面目で子供思いだからこそ転職することには大きな決断が必要だと思います。まずは、頭の中でもやもやと抱えているものを整理してみてください。

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うつ病の私が言われて嫌だったこと

うつ病の私が言われて嫌だったこと

私が、休職する時に職場の人に言われて嫌だったことがあります。それは、

「気が付かなくてごめんね。」という言葉でした。

 

 

職場に行けなくなって、3週間経った頃、管理職と学校近くのカフェで会い、話をしました。

その時に副校長から、「そんなに悩んでるなんて、気が付かなかった。」「気が付かなくてごめんね。」と言われました。私が学校に行けなくなったのは副校長のせいではない。その人のせいではないのに謝られると心が痛みます。

決して悪い言葉ではないし、本人の素直な気持ちだと思います。でも、私はその言葉にとても傷付きました。

 

「気が付かなくてごめんね」は、「もっと周りに相談すればよかったのに」と言われているような気がしました。普通の人が聞いたら、「あんた捻くれてるよ!」と言われてしまいそうですが…

うつ病の人の心ってそれほど繊細なんです。

 

結局その後、「次からは、困っていることを相談できるといいね。」「ストレスを発散できるようになるといいね。」と言われてしまいました。

 

やっぱりね…

結局、相談できなかった私が悪いのね…

 

別に、周りに一切相談しなかった訳ではないんですけど…

 

学級がうまく行かないときは学年の先生に相談したし、大変な児童の対応については、学年の先生以外の先生にも相談したよ。

それでも辛くて限界だったんだよ…

 

なんともモヤモヤした気持ちで休職期間に入りました。

 

精神的に不安定な人には

○下手に謝らない。

○変に優しくしない

ということが大切なんだと思いました。

いつも通りに接してほしいです。

 

学校に行けなくなって3週間後

学校に行けなくなって3週間経ってから、管理職と話をしました。学校に行くことはできなかったので、学校の最寄駅の喫茶店で待ち合わせをしました。旦那も一緒について来てくれました。

 

私は、夏休みまであと1週間という状況で、職場に行けなくなりました。学校に電話をすることすらできない状況になりました。学校への連絡を全て旦那に任せていました。

 

管理職に会うのはすごく緊張しました。もう会いたくないと思っていました。

でも、すごく温かく迎えてくれました。PTA会長まで、わざわざ来てくださいました。

 

手続きとしては、診断書を提出し、90日間の病気休暇。さらに年度末まで、休職の申請を出すことに決めました。

 

公務員は恵まれているなと思います。

休職中も給料の8割は支給されます。

かなりありがたい制度でした。

初めての心療内科

初めての心療内科

 

休職する前は、心療内科に通い、薬を飲みながら働いていました。サインバルタという抗うつ剤と、夜に精神を安定させ、眠りやすくする薬です。

薬を飲む前は、気持ちが落ち込んで急に涙が溢れたり、不安で夜眠れなかったり…とにかく毎日が苦痛でした。自分は鬱病ではない。そんなに心が弱い人じゃない。って自分に何度も言い聞かせていました。

鬱病の定義は曖昧だと思います。自分の心の中は、自分にしか分からないから。そもそもお医者さんが、「あなたは鬱病です。」と診断するのも不思議な気がします。

辛い、死にたい、逃げたい、もしかしたら鬱病なのかな…そう考え始めたら出来るだけ早く、お医者さんにかかるべきだと私は思います。限界は自分で決めればいいのです。

 

私は特に、週末が辛くて仕方なかった。酷い時は、金曜日の仕事帰りのときから落ち込んでました。普通なら「華の金曜日だー!やったー!」となるはずが、「この休みが終わったら、また仕事に行かないといけないんだ…」と沈んでいました。土曜日も日曜日も仕事のことを考えては落ち込んでいました。

 

 

ある週明けの朝。

仕事に行く準備をしたものの、ソファから動けなくなりました。行きたくない。休みたい…

結局「胃が痛くて吐き気がする…」と嘘をついて休みました。

休んでしまった罪悪感と仕事に行かなくてもいい開放感が混ざった複雑な感情。3年間、体調が悪くても1度も休んだことがない私が、初めて仮病を使って仕事を休みました。

 

あ、私…いよいよ…まずいかも…

 

心療内科に行くことは、敷居が高いと感じていてなかなか踏み出せませんでした。でも、もう限界だと思い、初めて仕事を休んだ日に心療内科に行きました。

 

行って良かったです。本当に。

薬を飲むことにも抵抗はありましたが、飲んで良かったです。効き目は勿論ですが、「これを飲めば大丈夫」という御守りにもなりました。

 

それから1ヶ月近く、薬を飲みながら仕事を続けました。

 

 

 

もし、心療内科に行くことを躊躇っているなら行ってください。内科や耳鼻科に行くのと同じです。ひとりで抱え込まないでほしいです。

ひとりでも辛い思いをしている人が救われますように…

 

 

 

 

 

 

教師生活スタート

大学卒業後、ストレートで小学校教諭になることができました。小学校3年生の時からの夢が叶ったのです。

 

そして、本当に恵まれていることに実習していた学校へそのまま就職することになり、さらに私の担当する学級には育成教員がつくことになりました。東京都では、新卒で教員になると、この「新人育成教員」がつく場合が多いです。

定年退職をし、再任用としてベテランの先生が初任の指導に当たってくれます。保護者に対しては、「2人で担任をします。」と説明をします。保護者としても、初任1人でなく、ベテランの先生がつくことに安心しているようでした。私に指導をしてくれたY先生は、本当に素敵な方でした。

初任者への指導については、新人育成教員の判断に任されるところが多いようです。私は、授業のほとんどを最初からさせていただき、Y先生は補助に入る形でした。放課後には、授業や学級経営についての指導や助言をいただきました。Y先生は、必ず私の良い所を1つ言ってくれました。その上で、さらに良くなるように指導をしてくれました。性格はとてもサバサバしていて、ストレートに助言を受けることもありましたが、不思議と嫌な気持ちはしませんでした。良い指導者とはこういう人なのだと、Y先生から学びました。

はじめての担任は1年生。特別支援の必要な児童が2人いて、教室を飛び出すことは日常茶飯事でした。でも、辛いとは思いませんでした。2人で担任をすることで、教師の心にゆとりができ、子供たち一人一人のこともじっくり見られました。本当に可愛い子供たちでした。

 

しかし、この新人育成教員制度で苦しんだ同期の仲間もたくさんいました。

私の友達の中には、授業を全くさせてもらえず、実習生と同じ状態。子供たちの前で、叱責される。放課後に延々と授業の批判をされる…などなど泣きながら毎日を過ごしたという方が何人もいました。そのうちの1人は、その育成教員と上手くいかず、年度途中で退職してしまいました。

相性が良く、上手くいけばいい制度なのですが…メリットもデメリットもありますね。

 

巷では、初任はいきなり前も後ろも分からないうちに教壇に立たされて大変だ…なんて言われますが、実は東京都の小学校はこうやって、再任用の教員をつけて若手を育てようとするシステムがあるんです。その制度がいいか悪いかは別として、こんな取り組みをしてるんだということを、異校種の先生や他地区の先生にも知っていただきたいなと思います。

私はこの制度で出会えた先生がとても素晴らしかったので、本当に感謝しています。

夢だった小学校の先生④

大学3年生の後半ごろ転機が訪れた。東京都で小学校の教員をされている方はご存知だと思うが、東京都では東京教師養成塾(この名前どうにかならんのかな…笑)という制度がある。

小学校教諭として現場でいち早く活躍できる人材を大学4年生の間に育てるというものだ。

簡単に説明すると、大学ごとに枠が決められており、大学内の選考と東京都の選考を通過すると、この教師養成塾に入ることができる。

私はこの養成塾制度を知り、チャレンジしてみようと思ったのだ。

大学内での枠は3枠あり、学内選考はそれぞれの大学で試験内容を決めていいというものだった。

学内の選考は、教員採用試験のような筆記試験、鉄棒(逆上がり、空中逆上がり)、ピアノの弾き語り、面接、論文だった。

実際の採用試験と似ている内容だった。

運良くこの選考に通過し、東京教師養成塾生として入塾することになった。

 

入塾すると班(10人程度ずつ)に割り振られ、担当の教授もついた。

研修内容は、月に1回程度、東京都教職員研修センターへ行き講義を受け、その後班員とディベートをし、報告書を提出する。

夏に1泊の研修合宿

一般企業への職業体験

授業作りや模擬授業公開

など盛りだくさんだった。

また、それらに加えて1年間配属校で教育実習を行い、月1で研究授業を行った。

 

またさらにそれらを大学と両立していたわけだから、相当大変だったと思う。

でも教師になりたいという思いが強かった私は、決して苦だと思わなかった。

 

何より実習校の4年生はとても素直で可愛らしく、週に1度の実習がとても楽しかった。

 

その後は、養成塾の経験を生かして採用試験も見事合格。

運良く実習していた学校に、そのまま初任者として採用をされた。小学校教諭としてはかなり順調なスタートラインに立ったのだ。

 

 

夢だった小学校の先生③

大学に入った私は、適度にバイトをし、遊び、学生らしい生活を送っていた。

長期休みには、大学近辺の小学校でボランティアをし、着々と夢を叶える準備をしていた。

ボランティアでは、支援が必要な子供の補助をしたり、休み時間に子供たちと外に出て思いっきり遊んだりした。子供たちが本当に可愛くて、先生になりたい夢は大きくなっていった。

 

ボランティアで出会った子供の中で忘れられない子がいる。小学校3年生のライカちゃん。

フィリピン出身で私が補助に入る1週間前に転校してきたばかりの子だった。日本語がほとんど喋らなかった。その学校の教頭には、「とにかくひらがなを教えてあげてほしい」と言われた。

クラスのみんなが一斉授業を受ける中、私はその子の隣に座り、挨拶をした。ライカはすごく寂しそうな顔をしていた。私に対して警戒しているような感じだった。

きっと言葉が通じない国に来て、友達とも馴染めず、不安に思ってるんだろう…

 

私は持っていたメモに「i'm Miwa」と書いた。少し微笑んでくれた。そして覚えたての日本語で「らいか」と書いてくれた。

私はりんごのイラストを描き、横に「りんご」と書いて発音をしてあげた。ライカも「りんご」と発音をしてくれた。そのようなやり取りをボランティアの期間中はずっと行なっていた。

イカは自分の家族や好きなことを話してくれた。話すといっても日本語は話せないので、イラストとつたない英語を組み合わせてなんとかコミュニケーションをとった。でもそれはすごく楽しかった。

2週間のボランティアの最後に、ライカは泣きながら「LOVE」と書いてくれた。絶対先生になろうと決意をした。

 

もし今も日本にいるなら、ライカは高校生になるのかな。元気にしているかな。

 

色々な国籍や文化を持った子が、日本の公立小学校に入学することは、これから増えてくるだろう。そんな子供たちが少しでも安心して、楽しく学校へ通えますように。